夜食に春雨

辺境に生きる文字書きです。

 

「いただきます」

 

 

 退職して行き場もなかったため故郷である小さな町に戻ってきたは良いものの、肉親もおらず土地だけが残った場所で特にするべきこともなく交流する相手もなく、日々を持て余していた。小さなこの町は何処か閉鎖的で、夏祭りは中止してはならぬとか縁切り神社に夜願うなとか町特有の風習が多く残っている。

 

 それ自体を億劫に感じることもあるが、しかし古くから言い伝えられてきた風習なのだから何かしらの意味があるのだろう。そうして、そのひとつに「もし……」今日のように湿気が皮膚を撫でる蒸し暑い夏の夜に、背後から声をかけられたら決っして振り向いてはいけないというものがある。

 

 どうしてなのか理由は知らない。けれど、そう、居るのだ。この町には人間ではないナニカが、そうしてそのナニカに招かれた者は、魅入られた者は、人と共に居られぬことを小さな頃に父から教わった。だから先程から聞こえてくる足音と声には聞こえない振りをして、砂利道を蹴るように早足で帰路につく。

 

 正確には、帰路につこうとする。ジャリ……っと、自分の足音に重なるように足音が追いかけて「まって……」か細い声が呼び止める。夜と言っても深夜という程でもない時間に虫の音ひとつ聞こえぬところも気味が悪い。スマホで辺りを照らしても良いが、そこへ映る影が人の形をしていなかったら?

 

 暗闇は想像を呼び、言い伝えは恐れを招く。心臓の音ばかりが大きく聞こえ、必死に歩き言葉に応えず振り返らない此方に苛立ったのか、後ろの足音が大きく、大きくなって、そして。

「は、ぁ……。やっと追いついた……!」

「え?」

 息を切らしながら、私より少しだけ背の低い女性が「ぜぇ、はあ」と息を整えながら隣立つ。町の雰囲気と暗闇に呑まれて「人ではないナニカ」だと勝手に怯えてしまったが、声をかけてくれた女性の手元には見覚えのあるハンドタオル。

 

 祖父の遺品整理で譲り受けた二十代前半の女が持つには違和感を持つハイブランドのそれを大事に持ってくれている女性は黒髪をきっちり一つ結びでまとめ、縁の太い黒フレーム眼鏡が走ったせいか目線と少しずれて、肩を上下に動かしている。

「無理に追いかけるものではなかったかもしれないけど」

 落ちるところを見てしまったから。呼吸を整えた後に、女性は微笑みながら大切な……とは言っても、遺品であるだけで必要以上に思い入れはないハンドタオルを丁寧な仕草で差し出してくれた。

「ありがとう……ございます。あの、夜だったから」

「ううん。この辺りは物騒な噂があるのに、私が軽率だったの。気にしないで? 渡せてよかった」

 話し方や服装、そうして肌の皺から、自分よりも年上なことには気付いているが、 朝、駅のホームで擦れ違っても気付かない程度に有り触れた見た目、昼食にファミレスで日替わりランチを頼んでいそうな質素さ。

 

 そういった部分を感じてしまい目上の人間と会話をする気持ちになれず、返答する言葉に迷う。親切心で追いかけてくれた名も知らぬ女性を見た目だけで判断し、内面を見られない己の幼さを恥じながら、首を小さく振った。

 

「でも」

 

 ピタリ。女性の顔から表情が消える。

「あ、」

 ぐにゃりと、女性の顔だったはずなのに、何かの動物の顔に見えて、いいやそんなはずがないと瞬きをしたけれど、知っている。だめだ、これはもう、駄目なやつ。

「この町で、この夜に、応えてはいあ甲がびおぎが」

 逃げなくてはいけないのに、体がちっとも動いてくれない。ソレはもう人間の言葉を話す気もなくて、人としての形を取り繕うこともしてくれない。せめて最後まで人であってほしかったと無意味な拘りを主張してみる。

 

 ぐにゃり、どろり、ぴたり、形容しがたい音が耳の奥から(或いは周囲から)響いて引いて、自身の終わりに息を吐く。ああ、だからこの町に帰ってきたくなかったんだ、クソったれ。

 

 声を出すことも視線を逸らすことも出来ぬまま、祖父のハンドタオルだと思っていたものが砂になって消えていく。ああ、そうだ、おじいちゃんの大事なものだから、だから普段は箪笥に仕舞い込んでいて、だから落とすわけが……。

 

 クツクツ……と、笑い声に近い気味の悪い声、いいや、音が何重にもこだます最期に聞いた言葉が随分とありふれたものだったで、ああ何てくだらない人生だと……痛みも音も消えていく世界の中で、世界を嘲った。