おはようの話
そこに、おはようがあった。
おはようは何処に行くこともなく、ただ、そこにあった。ときに旅人が立ち止まり、おはように声をかけてみるが、しかしおはようは答えない。彼、あるいは彼女に意思はなく皆を見下ろしながら微笑むだけ。静かに厳かに、おはようは今日も、そこに居る。
その日は熱帯夜で、上手く寝付くことのできなかった旅人はひどく疲れていた。旅人は定職に就いていないだけで真面目なものだったから、どれほど寝不足でも一日の始まりは朝と決めていた。
だから、気だるげな暑さと眩暈がするほどの眠気に襲われながらも旅人は、おはようの姿を確認するために大通りに出た。おはようは変わらずそこに居て、瞬きすることもなくただ、立ち続けていた。
「やあ、おはようさん」
返答がないことを分かっていながら、声をかけてみる。おはようがこちらを見ることは無い。分かっていたことだが、何故か今日は寂しさを感じてしまう。疲れているからだと溜息で寂しさを誤魔化す。
そこでふと、旅人に悪戯心が芽生えた。
先述した通り、その日の旅人は疲れていた。寝付けなかったことの原因は殆ど暑さの所為であったが、それと共に夢見も最悪だったためだ。おはように挨拶をせずに国を去ったら、おはようが急に眼を開いて此方を追いかけてくる、ひどく恐ろしい夢を。
だからといって現実のおはように意趣返しをするのは悪趣味などと分かっていた。けれどどうせ、おはようは何を言ったところで此方を見ることは無いし声を出す器官もない。何をしたところで、反応など一切ないだろう。
だからこれは、ただのお遊び。
「なあ、目のないお前さんは気付いていないのかもしれないが、そろそろ夜になるよ。お前さんが居たら、周囲がちっとも暗くならない。そろそろ『こんばんは』の、時間だろう?」
ぴくり。
おはようが此方を「視た」気がした。
月曜に続く